親ばかパパの子育て日記

キャンピングトレーラーを牽いて全力で遊ぶ!

2026.1 山陰の旅(11日目・後半)【鳥取県鳥取市→兵庫県丹波篠山市】 ~ 植村直己冒険館 ~

 「山陰の旅」最後の訪問地は兵庫県豊岡市にある「植村直己冒険館」。植村さんは私の人生に影響を与えてくれた恩師のような存在です。植村さんの生まれ故郷である兵庫県の豊岡に記念館があることを知り、ずっと前から訪れてみたいと思っていたのでした。

 子ども達が植村さんの冒険を見て、どんなことを感じるか。そんなことも楽しみに、旅の締めくくりとして豊岡を訪れることにしたのでした。

 

 

 植村直己冒険館

 

 植村直己冒険館に到着。

 駐車場は隣接しているスポーツ公園との共用になっています。大型車スペースを見つけることができなさそうだったのですが、迷惑にならなそうな場所を見つけて止めることができました。お正月休みも終わった平日なので、駐車場はガランとしていました。

 

 では、参りましょう!

 

 植村直己さんがマッキンリーで消息を絶たれたのは、1984年(昭和59年)2月。当時、私はまだ5歳。よって、私の中には植村さんが生きていらっしゃった頃の記憶はありません。

 そんな私に「冒険」という世界を教えてくれたのは、河野兵市さんでした。河野さんは自転車で世界を旅したのち、1997年に日本人として初めて「徒歩による単独北極点到達」を成し遂げた冒険家です。私が小学6年生の頃、河出書房新社から発行されていた『こども時刻表』という雑誌に河野さんが紹介されており、その記事を読んだ私は、自転車で世界を旅するという冒険に強く魅せられました。

 

 その後、幸運にも河野さんには一度だけお会いしてお話をする機会にも恵まれ、河野さんが著した書物も読むようになりました。

 そして、河野さんの本の中に何度か登場していたのが植村直己さんで、私は自然と植村さんの書物も読むようになっていたのでした。

 

 こちらが、記念館の入口。

 

 まずはシアターで植村さんの軌跡を拝見しまた。

 謙虚で人懐っこい笑顔の方だと聞いていましたが、映像で見るとそのことがより伝わってきました。これまで書物の中でしか知らなかった植村さんに、初めて“お会いした”ような気持ちになったのでした。

 

 そして、資料展示室へ。

 

 『当時の冒険はこんなに厳しい条件だった!』

 まさにその通りだったと思います。例えば、現代では子どもでさえ手にしているスマホ。これが植村さんの時代にあったとしたら、植村さんの冒険は全く異なるものになっていたでしょうね。

 ちなみに、私が自転車で北南アメリカ大陸を縦断したのは2004~2006年ですが、それより20年くらい前までの時代に世界を旅していた人達は、「次に訪れる国にある日本大使館に自分宛の郵便物を送ってもらい、首都に到着すると大使館で手紙を受け取って読むのが楽しみだった」と話していました。

 それが私の時代にはインターネットが普及し始めており、WEBメールが使えるようになっていました。途上国の貧しい村であっても必ずネットカフェがあり、1時間1ドルくらいで利用することができたので、私は町に到着すると「ネットカフェでメールを読む」というのが最高の楽しみになっていました。

 それがそれが…私より10年も後の時代の人達は「砂漠の中でテントを張っていてもスマホ等でインターネットが使えるようになっている」という話を聞いて驚きました。そして、インターネットを通して情報も集めやすくなったことから、私の時代では情報不足で入り込むことができなかったような地域にも普通に入っているという話も聞き、時代の流れを感じていたのでした。

 そんな歴史を知っているからこそ余計に、植村さんの成し遂げたことの偉大さを感じます。

 

 植村さんが北極で使用していたソリとテントです。

 木製のソリはすごい重さなんだろうな⋯これも現代であればもっと軽くて丈夫な素材になっているんでしょう。

 

 植村さん直筆のアドレス。

 荷物に直接書いちゃうんですね。こんな書き方にも時代を感じます。

 

 四重張りのテントの室内。

 このテントの中で−数十℃,風速数十メートルという夜(といっても白夜だけど⋯)を過ごしていたのですね。

 

 植村さんはその偉業とは裏腹に随分と小柄な方だったそうです。身長は160cmだったとのこと。

 その小柄な身体で、

 

 25kgもある荷物を背負って標高8000mにも挑んでいました。

 標高8000mという世界は、「自力で歩くことができなくなった人はその場に置いていくしかない」というくらい厳しい世界だと聞いたことがあります。そんな酸素の薄い世界でこんな荷物を背負って崖を登るんですから、それは私の自転車旅行と比べても比にならない過酷な世界です。

 

 展示室はまだまだ続きます。

 

 この木製の扉は、明治大学山岳部の部室の扉。

 植村さんが冒険家となる第一歩を踏む瞬間となった扉です。

 

 私が植村さんを尊敬する理由の一つに、冒険の資金を自分で調達していたことがあります。

 アメリカの農場、フランスのスキー場でのアルバイトの話などは『青春を山にかけて』の中に面白おかしく著されていました。

 

 「1ドル=360円」の時代にこれだけ世界を駆け巡ることがどんなに大変だったことか⋯。

 植村さんの山に対する功績はもちろんなのですが、苦労を重ねながらその挑戦を続けていたところを私は尊敬しています。

 

 植村さんは日本人で初めてエベレストに登頂した人物でもあります。しかし、その逸話にも感動的なエピソードがあります。

 山頂アタックの日、植村さんはリーダーの松浦輝夫さんと二人でベースキャンプを出発し、植村さんが先頭を歩いて登っていきました。これは「大学山岳部では下級生が先に行く」という慣習に従ったものらしいです。

 そして、山頂を目の前にしたところで、「先に行ってください」と松浦さんに先頭を譲ったそうです。あと数歩、そのまま自分が先頭を歩いていけば「日本人初」という栄誉を手に入れられるというのに⋯。そして、松浦さんは「お前が行け」と答え、二人はしばらくその場に立ち止まり、そして二人は肩を組み横並びで山頂を踏んだそうです。

 植村さんの「謙虚さ」が伝わるエピソードですよね。この話は私の頭の中にもこびりついていたのでした。

 

 植村さんが使用した装備の数々。

 どんな想いで、この道具を握っていたのだろう…そう思うと、とても複雑な気持ちになりました。

 

 こちらが有名なニコンの「ウエムラスペシャル」

 これは、植村さんが極地冒険のためにニコンに依頼して特別製作された、世界に3台だけのカメラ。−50℃の寒さや犬ぞりの激しい振動にも耐えるよう作られたそうです。そして、その3台の行方はというと…

 1台:東京都・ニコンミュージアムに展示

 1台:兵庫県豊岡市・植村直己冒険館に展示

 1台:マッキンリーで植村さんとともに行方不明  

 とのこと。「残りの1台」が今も山に眠っているという事実が、ウエムラスペシャルを伝説的な存在にしていますね。

 

 植村さんが使用していた無線機。

 電池はリチウムでした。今では当たり前になっているリチウム電池ですが、当時はさぞかし高価なものだったんでしょうね~。

 

 植村さんが消息を絶ったマッキンリーでの軌跡。

 

 ここでは、植村さんが消息を絶つ前日にセスナ機と交わした無線の録音を聞くことができました。

 

 涙無しに聞くことはできませんでした⋯。

 交信はノイズが多く、なかなか植村さんの声を聞き取ることができません。もし、この部分の一言が聞こえていただけでも植村さんは助かっていたかもしれない⋯そう思うと切なくて仕方ありませんでした。

 

 植村さんはマッキンリーから帰ったら冒険学校を作りたいと言っていたそうです。

 どんな学校になっていたんだろうな。植村さんの冒険の実績はもちろんですが、植村さんのその人柄が子ども達にどんな影響を与え、どんな夢を持たせたのだろうか、そう思うと無念でなりません。

 

 植村直己冒険賞の受賞者が紹介されていました。

 

 この中で真っ先に目にとまったのは、阿部雅龍さんです。

 私が南米を自転車で走っていた頃、「後ろを自転車で走っている日本人がいる」という噂を聞いていました。それが阿部さんでした。彼は旅人の間では「がりゅう君」と呼ばれていました。

 

 その後も阿部さんにお会いすることはなかったのですが、私が南米大陸の一部を一緒に走った友人であり、今回の「山陰の旅」の序盤に山口で再会した友人は帰国後に阿部さんとの親交がありました。そして、彼を通して阿部さんが南極に挑戦している話を聞き、一時的には自分と同じような旅をしていたものの、「普通の生活に戻った自分」と「夢を追い続けている彼」の生き方を重ね、「人生とはなんぞや」ということを私は考えるようになっていたのでした。

 そして、阿部さんは2024年、41歳の若さで亡くなりました。死因は脳腫瘍。阿部さんが亡くなったことを伝えるニュースが流れた日、山口の友人がメールを送ってきました。「がりゅう君が冒険で死ぬ事はあるかなと思っていたけど、病気で死んでしまうなんて…。」「人間、いつ死ぬかわからないから、お互いやり残したことはやっておきましょう。」

 水木しげるさんの言葉が思い出されました。「結局のところ、人間には死があった方がいい」。そう、終わりがあるからこそ、価値があるんだと思います。しかし、それが早すぎる必要はありません…。植村さん、河野さん、阿部さん、この方々が今でも生きていたら、私達に何を教えてくれたのだろうか、そう思うと残念でなりません。

 

 ショップにて、ポストカードを1枚購入しました。植村さんがエベレストに登頂した時の写真です。私の中で、大切なお守りにしたいと思います。

 ところで後日談となりますが、この旅行を終えて家に帰ると、長女が早速、本棚から植村さんの『青春を山にかけて』、野口健さんの『落ちこぼれてエベレスト』などを手にして読み始めていました。小学生にはまだ難しいんじやないかな、と思ったのですが、興味さえ持ててしまえば読んでしまうもんですね。

 

 しかし…自分の子どもがこんな旅をしたいと言い出したらどうしましょう?私自身がそんなことをしてきておきながら、自分の子どもが行きたいと言いだしたら大腕を振って「行ってこい!」と言えるのだろうか。親としては悩ましいですね(笑)。

 そんなことを考えると、「普通の生活」の中にも、冒険に出ることに匹敵するくらいの勇気が求めらえる場面があるような気がしてきました。

 

 さて、これで「山陰の旅」は終わりです。

 北近畿豊岡自動車道に乗ると、左手に長い桜並木が平行していました。調べてみると、円山川に沿って約2km以上続く桜並木とのこと。その時期にここを走ったらきれいなんでしょうねぇ~。ホント、日本狭しと言えど、まだまだ知らないところがたくさんありますな。

 ということで、これからも全力で遊び続けます!

 

 西紀SAにピットイン。中国道に合流する手前、最後のSAです。

 さて、今夜はここを宿にして、明日は一気に神奈川を目指します!

 

 備忘録

 1月5日(月)

 RVパークTOTTORI9:30→10:30道の駅あまるべ11:10→12:20植村直己冒険館15:00→16:10西紀SA

 この日の走行距離:牽引あり165km+牽引なし0km=165km

 この旅での走行距離:1460km+220km=1680km

 

 

 

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