親ばかパパの子育て日記

キャンピングトレーラーであっちへこっちへ!

2024.10 南米を自転車で旅した友と10年ぶりに再会

 10年くらいご無沙汰してしまった友人から突然のメールをもらいました。

 「勤続記念で10連休をもらえたので、なかなか会えない友達を巡る旅をすることにしました。遊びに行ってもいいですか?」

 彼は20年前に南米を一緒に自転車で走り抜いた友人です。帰国後もちょくちょくと東京で会っており、旅の写真展を一緒に原宿で開いたこともありました。しかしながら、彼が結婚をし故郷の山口に帰ってしまってからはなかなか会うことが出来なくなっていたんです。

 そんな友達が山口から神奈川までわざわざ会いにやって来てくれるなんて、こんなに嬉しい話はありません。

 

 

 2005年の物語

 

グアテマラのアンティグアにある「ペンション田代」。
様々な想いを胸に日本を飛び出してた若者達のスクランブル交差点だった。

 

 彼と初めて出会ったのは中米のグアテマラ。アンティグアにある「ペンション田代」という日本人宿でした。

 私はその町に2週間程滞在してスペイン語学校に通ったり山に登ったりして過ごしていました。彼も同じく、その宿に長期滞在をして旅の疲れを癒していました。

 そして、夕方になると一緒に食事を作るのがパターンになり、旅の話や日本でのこれまでの話に花を咲かせ親しくなりました。二人とも炊事のレパートリーが貧しかったので、毎日のように肉じゃがを鍋いっぱいに作り、たった二人で恐ろしい量の食材を食い尽くしていたことをよく覚えています。

 

ここが太平洋と大西洋の境目。船は階段式に水位を変えて大陸を乗り越えていく。
 ここを通過できる最大サイズのコンテナ船の場合、通行料は126万ドル(1.8億円)にもなるという。

 

 そして、彼は私より少し早くアンティグア(グアテマラ)を出発したものの、2ヶ月後にパナマシティ(パナマ)の宿で再会。その町でも一緒に休息の時間を過ごしました。

 自転車で旅をしていると、大きな街(中米で言えば、その国の首都)に到着すると、そこで長居をして休息を取るのが楽しみになります。走っている間はまさに「生きるか死ぬか」の世界ですから、安心して寝られる環境はまさに天国だったんです。

 パナマシティにいる間、彼と一緒にパナマ運河を見学しました。日の丸の旗が揚げられている貨物船が目の前を通過した瞬間は感動しましたね。だって、そこは日本から見たら地球の真裏なんですから。思わず、「日本まで乗せってくれぇ〜!」なんて、心の中で叫んでしまいました。日本を出てから1年を過ぎた頃だったので、そろそろ帰りたい気持ちがチラツキ始めていた時期でもありました。

 

 SNSなどなかった時代にバックパッカーの情報源として重宝されていたロンプラ。写真の掲載は一切なく、少しだけ地図が載っている他は文字情報のみ。英語が苦手な私が読み取れる情報は少なかったが、安宿を探すのには役立った。

 

 そして、彼とは数日ズレて別々の飛行機でキト(エクアドル)へ渡り、宿で再び合流しました。

 ちなみに、パナマとコロンビアの間は陸続きになっているものの、陸路で通り抜ける事は出来ません。そこにはダリエン地峡と呼ばれるジャングル地帯が広がっており、道が無いんです。ロンリープラネット(オーストラリアで出版されている旅行ガイド本)によると通り抜ける方法はあるみたいですが、一帯はゲリラに支配されて麻薬取引きが行われているような地域なので、かなりの危険が伴うとのこと。噂によると生きて通り抜けられる確率はかなり低いみたいでした。また、その先のコロンビアは当時、治安がかなり不安定であることも有名でした。なので、多くのチャリダーは泣く泣く飛行機を利用してコロンビアをパスしていたのでした。(これまた、ヨットをチャーターしてパナマからコロンビアへ渡るという方法もあったみたいで、パナマシティの宿には仲間を募集する張り紙がありました。これにもリスクはかなりありそうでしたが…)

 

私が立っているのが北半球。彼が立っているのが南半球。
このオレンジラインを境目に台風の回り方も反対になる。

 

 ところで、エクアドルの首都であるキトは赤道の真下にある都市でもあります。ご存知だったでしょうか?「エクアドル」とはスペイン語で「赤道」を意味しています。地理の問題で、世界地図に緯線が何本か引いてあって、「赤道はどれでしょう?」なんて問いが出されることが有りますが、エクアドルの位置を覚えていたら答えは簡単です。南米大陸で一番西に出っ張っているところがエクアドルです。

 そのエクアドルの中でも、首都のキトはちょうど赤道上にある街。そう聞くとアフリカに広がる砂漠のような土地をイメージされるかもしれませんが、標高2000mに位置し高山都市であるキトは暑くも寒くもなく、湿度も適度で超過ごしやすい快適な街でした。赤道上なので、もちろん気温は年中変わることがありません。

 キトでは彼と一緒に自転車を走らせ、町中にある赤道記念碑を訪問しました。ここでも、ちょっとしたエピソードがありました。赤道記念碑が立っている公園内は自転車進入禁止だったんです。しかし、アラスカから1年かけて自転車で走ってきた身としてはどうしても自転車と赤道記念碑を一緒に写真に収めたい!という訳で、必死に交渉しました。

「ソラメンテ トマール フォト!(写真、撮るだけ!)」

「ソラメンテ シンコ ミノトス!(5分だけ)」

「ポルファボール!ポルファボール!(お願い!お願い!)」

 そんな簡単な単語を連発しただけなのですが、エクアドルの方は優しかったです。「内緒だよ」というようなジェッシャーを交えて許してくれたのでした。その時に撮った写真が上の画像です。

 

エクアドル・キトで滞在した安宿「スクレ」。
中南米の安宿は1泊5ドル(550円)が相場だった。

 

 その後、エクアドルのキトからペルーのリマまで約2000kmは彼と一緒に一ヶ月かけて走り抜けました。

 エクアドルからペルーへ国境を超えると、そこにはセチュラ砂漠が広がっています。セチュラ砂漠はペルー北部の太平洋沿いに広がる砂漠で、雨が降るのは数年に一度という乾いた大地。しかし、その過酷な自然環境よりもさらに怖かったのは強盗でした。私も彼もそのことを知っていたので、この砂漠を一緒に走り抜けてくれる友を求めていたんです。ちなみに、7年半かけて世界五大陸9万5千kmを自転車で旅し、『いかずに死ねるか!』を著した石田ゆうすけさんが旅の途上で強盗に襲われてしまったのがこの砂漠でした。

 そして、この砂漠のさらなる大きな課題は、240kmの無人区間が存在することでした。治安の良いところではないので、野宿は避けたいところ。砂漠の中のポツンと一軒家(一軒テント?)で襲われたらなす術はありません。しかし、自転車で1日に走れる距離は100km前後。なんせ、自転車+キャンプ道具+食料+その他で60kg以上もある自転車で走るのだから、頑張るにしても限界があります。

 そう、無人地帯の砂漠を走るとなると、相当量の水も積んでいかなければいけません。ちなみに、この頃の私は毎日、コーラ4Lと水4Lを消費していました(炊事分を含む)。水だけだとね、自転車は走らないんです。ホントに力が入らないんです。筋肉は糖分で動いているという話を証明しているようですが、コーラだとガンガン走れるんですよねぇ〜。

 ちなみ、コーラは世界中どこの国に行っても売っています。なので、国境を超えるとまずはコーラを買い、その前の国との物価の違いを確認していたのでした。

 

240kmの無人地帯。強盗に襲われる恐怖と戦いながら一日で駆け抜けた。

 

 さて、話が随分と長くなってしまいましたが、結局、セチュラ砂漠は1日で走り抜けました。朝はまだ暗い4時頃に出発。そして暗くなった19時頃までぶっ続けで走りました。途中の休憩は午前に1回・昼食休憩・午後に1回のみ。それ以外は走り続けました。フル装備の自転車にて1日に240km。よく走り抜いたものです。まぁ、信号は皆無だし、アップダウンもほぼないような一本道での話なので、日本で同じようなことはできないと思いますけどね(笑)。

 

 町に入ると通り沿いには必ず食堂がある。大抵の場合メニューはなく、「ドス(2)」と言えば2人分の料理が運ばれてくる。多くの場合、ポジョ(鶏肉)が入った料理だ。

 

 リマに到着後、私は自転車を宿に預けてアマゾン川のプカルハ〜イキトスまでを船で旅することにしました。彼はそのまま自転車で南下するというのでここでお別れです。

 そしてその数カ月後、彼はアルゼンチンにて強盗に身ぐるみ剥がされ、全ての荷物を失い日本へ帰国することになりました。その時の話は彼が自分のブログに記すと思いますので、ここでは伏せておくことにします。

 

 10年ぶりの再会

 

 さて、そんな彼と10年ぶりに再開し、当時の思い出話に花を咲かすことができたこの週末は最高の時間でした。

 

 

 彼は最近になって旅の経験をブログに綴り始めたそうです。そして、その理由がまた衝撃的でした。

 「オレの親父は警察でマル暴の刑事をやってたんだよね。オレはその姿を知っている。けれど、オレの息子から見たらじーちゃんは脳梗塞で半身麻痺になった弱々しい老人でしかない。それって、とても残念なことだと思うんだ。だから、自分の息子からみて父親が、自分の孫からみてじーちゃんが、どんな生き方をしてきた人間だったのか分かるような記録を残したかったんだ。」

 なんて、刺さる言葉でしょう。自分にとっての利益ではなく、ただ単に自分の子どものことだけを考えてブログを書く彼。

 果たして、自分は自分の子ども達に誇れるような生き方をしているのだろうか、そんなことも考えさせられてしまいました。

 

note.com

 

 これが彼の綴っているブログです。

 彼は沢木耕太郎さんの『深夜特急』に憧れて、香港〜ポルトガルをバスとヒッチハイクで旅し、その後ロンドンから飛行機で大西洋を渡り、カナダのトロントで自転車を購入(ギアが付いていないママチャリのような自転車だったとか)。そして、トロント〜バンクーバーへと北アメリカ大陸を自転車で横断。その後は一度帰国して資金を作り直し、今度はオーストラリアに渡って自転車でオーストラリア大陸を一周。オーストラリアから飛行機でメキシコに飛び、再び自転車で中南米を縦断した、という頭の悪い人です。

 ちなみに、ブログではカナダ横断の話が有料になっていますが、「ブログの設定を知らず、有料になってしまっていた。無料にしたいんだけど、そうするとお金を出して読んでくれた人に申し訳ないので、しばらくはそのまにましておくつもり…。」だそうです。なんて、謙虚な人なんでしょ。

 

 そして、彼のこんな話にも衝撃を受けました。

 「仕事を定年退職したら、ユーコン川をカヌーで下りたい。」

 

 今の私は目の前ある忙しさに翻弄され、そんな夢を描くことも忘れていました。そう、昔は世界地図一枚あれば何時間でも何日でも過ごせるくらい、「夢を描くこと」に夢中だったというのに。

 私は24歳の時に「北米アラスカの北極海から南米最南端のウシュアイアへ自転車で地球縦断」を目標に日本を飛び出しましたが、資金が底をつき南米のボリビアより帰国をしました。その後、資金を作り直し再び南米へ戻ることを考えていましたが、腎臓病を煩ってとても自転車の旅など出来る身体ではなくなってしまいました。そして、そんな自分と結婚してくれる人と巡り合うことができ、3人の子宝に恵まれ今を生きています。これはこれで最高に幸せな人生ですが、ずっと遠くに目標を持っておくのも悪い事ではない気がします。例え、あの世へ行く時の手土産になってしまってもね。

 ウシュアイアへの旅は再開する日が来るのだろうか?さすがに自転車はキツイかな…?バスなら行けるか?全くわからないですねぇ〜。

 彼と10年ぶりに再会し、大切なことを思い出させてもらいました。自分が20年前に北米・南米大陸を自転車で旅したことなんか、忘れかけていたくらいでしたから。

 彼のブログ、ご興味のある方はぜひのぞいてみて下さい。

 

ブログランキング・にほんブログ村へ